矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 87


「ケータイ」に物申さず・・・

日常会話はほとんど問題ないレベルの日本語学習者でも「家を出るとき」と「家を出た
とき」の違いが分からず戸惑ってしまう生徒が多い。我々日本人はこんなことほとんど
気にしないのだが、確かに大きな違いがある。「家を出るとき、地震があった」と「家を出た
とき、地震があった」の違いは・・・。

もちろんこの違い、日本人はすぐ分かるのだが、日本語学習者には確かにややこしい。特に時制にうるさい英語を母語とする生徒は・・・、例えば「きのう、家を出るとき・・・」は
とても不自然に感じてしまうのである。どうしても「きのう」というと「出た」と過去形を使って
しまいたくなり、「きのう家を出たとき、地震がありました」となってしまうのである。

うーん、気持ちはよく分かるのだが・・・。でもこの文から我々はこの地震はかなり大き
かったのでは・・・と判断してしまうかも・・・。なにしろ家を出たあと、外で感じるほどの
地震なのだから・・・。

20年前の授業を思い出した。ある生徒が「家を出たとき、電話をかけます」という文を
作った。そしてその生徒に「どこで電話をかけるのかな・・・」とちょっとふざけながら、こんな
説明をした。「ごはんを食べるとき、『いただきます』といいます」と「ごはんを食べたとき、
『ごちそうさま』といいます」の違いですよ。だから「家を出たとき、電話をかけます」は家を
出たあと、外で電話をかける意味になりますよ、である。もちろん携帯電話など全く
無かったときの授業である。  

しかしあっという間に携帯電話が広まって、誰でも「ケータイ」を持っている時代である。
「家を出たとき、電話するよ」が「ケータイ」のせいで不自然な表現ではなくなってしまった。
確かにそれはそうだが・・・日本語教師としては戸惑いを隠せず、「ケータイ」に文句の
一つも言いたい気持ちである。

「会話」という漢字は「会って話す」である。会わなければ話せなかった。しかし明治の
初期(1876年)に電話というものが発明されてから「話し言葉」もどんどん変わってきた
のは間違いないであろう。なにしろ会わなくても話せるのだから・・・。

例えば電話など考えられなかった時代は「いまからそっちに行くから・・・」などの表現は
ありえなかったはずである。電話が一般化している現代ではこの表現に何の違和感も
ない。しかしちょうど電話が使われはじめた明治初期の人々は電話で「いまからそちらに
行くから・・・」の表現に最初はものすごく戸惑いを感じたのではないだろうか。

このように「電話」や「携帯電話」の出現による言葉の変化は時代の変化と共にごく
当たり前のことなのであろう。もちろん日本語だけではなく・・・。はるか昔の中学時代の
英語の授業を思い出した。電話を借りる場合に当然「借りる」だから「borrow」を使って
「May I borrow this phone?」と言って、先生に「電話をどこに持っていくの・・・」と
叱られた。当時電話は「borrow」ではなく「use」でなければダメであった。しかし
「ケータイ」が広まるにつれ、今では「borrow」でも不自然さは感じないとのこと。
今は亡き英語の先生にぜひ知らせたい思いである。

ここで一句、
  ケータイで ことばの形態 様変わり



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