矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語70


☆ 「ひとつ」 は いくつ・・・??

「今日はひとつ大いに食べて、飲んで、歌いましょう」会社の宴会などでこんな 挨拶をよく耳にする。でも「ひとつ」はおかしいですよね。「食べる」「飲む」「歌う」の 三つあるじゃないですか・・・、とは外国人ビジネスマンの素朴な質問である。「うーん、 なるほどね・・・」。我々日本人はこんなこと考えもしないのだが・・・。でも確かにこの 「ひとつ」はビジネスなどによく使われる。「ここはひとつ穏便にお願いします」とか「新製品 の宣伝と販売、ひとつよろしく頼みます」などなど・・・、でもこれも宣伝と販売と二つで すよね・・・。「もう、うるさいなァー」と思いながらも、「ひとつ」を数の「一個」と同じ意味 として習った学習者の戸惑いもよく分かる。日本語教師としてここはひとつ、「ひとつ」を じっくり考えなければ・・・。

日本語教育においてこの「ひとつ」は上級になればなるほどややこしい。まず「あの人 は挨拶ひとつ出来ない」などという表現を習う。この場合は「挨拶も出来ない」と同じで すが、この「ひとつ」は挨拶を強めている表現であり、「挨拶さえ出来ない」と同じような 意味ですよと教えている。でもこの場合の「ひとつ」には「一番基本の・・・」のように数の 「いち」の意味が感じられるので上級者にはさほど難しくはない。「何ひとつ出来ない」 などと同じように・・・。

しかし冒頭の「今日はひとつ大いに・・・」の表現にはほとんど「いち」という感覚はない ので分かりにくい。これは強くお願いなどするときに使う特別な言葉として説明したほうが 良さそうである。「どうかよろしく」をちょっと強めた言い方として教えているのだが・・・でも こんな表現を日本語学習者は使う必要はないと思う。もし「今日の授業ひとつ お手柔らかに・・・」などといったら、先生は目を丸くしてしまうであろう。

またこんな使い方も・・・、野球などで味方がピンチのとき、「ここはひとつ踏ん張らな ければ・・・」。この場合は「どうしても」「絶対」そんな意味になりますよと説明したあと、 ある生徒が「先生ありがとうございました。まあひとつお酒でもどうぞ・・・」。ところでこの 「ひとつ」はどんな意味ですか・・・。全く憎たらしい上級者である。

こんなビジネスに関する会話をしていたら、以前日本で上級敬語を教えていたある ビジネスマンのことを思い出した。彼はオーストラリア出身で日本の商社に勤めており、 課内会議のときいつも課長が最後に「じゃ、そういうことで今日の会議終わります」と 挨拶していた。彼はこの「そういうこと」がとても気になって、ある日思い切って課長に 「そういうことってどういうことですか」と質問した。

私もサラリーマンの経験があり、この 「ひとつ」をよく使った記憶があるのでとても気になり「課長はなんと答えたの・・・」と聞くと、 「そういうことはそういうことなんだ」と怒られてしまったとのこと。彼の質問も分からない でもないが、課長さんのびっくりした姿が目に浮かぶ。日本人であればそんな質問は 絶対しないのだから・・・。

確かに言葉、特に話し言葉には説明などなかなか出来ないものもたくさんあるん ですよと叫びたいところである。ではそういうことで今回のエッセイは締めくくらせて いただきます。


 
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