矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 38

☆ 「謙譲語」の嘆き

 ある大学で敬語意識調査した結果「○○先生はおりますか」という言い方は先生を敬っている表現という結果が出たとのこと。また来客に対して「受付で伺ってください」という表現にほとんどの学生が違和感を感じないらしい。確かに言葉とは時代ともに変化していくもの、いわゆる「言葉のゆれ」として捉えそんなに目くじらを立てることもないのだが、最近の敬語の乱れ特に謙譲語の誤用は日本語教師としてとても気になる。

 本来この「おる」や「伺う」などの動詞は自分の動作を低めるいわゆる謙譲語であり、相手の行為に用いるのは大間違いである。この場合状況や言い方にもよるが「○○先生いらっしゃいますか」や「受付でお聞きになってください」あたりが無難であろう。皮肉を言うならいざ知らず、相手の行為には尊敬語、自分の行為には謙譲語を用いるのは我々日本人としてはごく当たり前である。しかし日本語を勉強している上級者に謙譲語を教えるとき必ずこんな質問がくる。「どうして自分を低める必要があるんですか」である。「うーん」そう言われると確かに・・・。日本の若者もこの「へりくだりの表現」いわゆる「謙譲の美徳」など段々必要性を感じなくなってきているのかもしれない。「へりくだりの文化」も日本語の中に大きな役割を占めているのだが・・・。

 一方こんな間違えもよく耳にする。「お客様が申されたように・・・」や「お客様が参られました」である。これは「申す・参る」に「れる」を付けて何となく尊敬語の雰囲気を出したいのであろうが、正に間違いの二重奏である。お客様の行為に謙譲語である「申す」や「参る」を使うのもひどいものであり、またその動詞に「れる・られる」など付くはずはなくメチャクチャな表現なのだが、今後若者の間では何となく広がっていきそうな気がする。「末恐ろしい・・・」と謙譲語の嘆きが聞こえてきそうである。

 しかし「○○先生はおりますか」は間違った表現だと感じる方も「○○先生はおられますか」に違和感を感じる方は少ないのでは・・・。でもこれも正に「おる」という謙譲語に「れる」をつけたのであり、本来は大間違いなのだが・・・、でも「日本語教師養成講座」の受講生に聞いてみると大部分の生徒はこの表現に違和感などまるで無く、正しい表現だと思っていたとのこと。日本語教師としてどう説明すればいいのだろうか・・・。  

 この「おる」の語源は一説によると「檻・おり」から転じて出来たもので、一定の状態に留めておくさまを表しており、確かに自分をへりくだらせる言葉である。しかしまたこの「おる」や「れる・られる」とう言い方は関西地方が源と言われ、特に敬語意識が強い関西弁の中で二語が一緒になった「おられる」が尊敬表現として定着してしまい、どんどん広まって既に市民権を得てしまったと言われている。

 生誕100年を迎えた小津作品を何本か見た。当時はごく当たり前だったのであろうが、何となく馴染めにくいセリフにいくつか出合った。やはり言葉の変遷は世の常であり、それを使う、その時、その時の人々が決めていくものなのであろう。


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