矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 12

☆ 「夏目漱石さん」 なぜ不自然?

その質問は日本語教師になりたてのころ、生徒とのこんな話しから始まった。「先生、千円札の人は坊ちゃんを書いた有名な作家の夏目漱石さんですよね」である。その時この「夏目漱石さん」という言い方にとても違和感を感じた。我々日本人は使ったことも無いし、ほとんど聞いたこともない。夏目漱石に単に「さん」を付けただけなのだが・・・。確かに「このお寺は徳川家康さんがお建てになったものです」などと敬語表現が使われていると、とても奇妙な感じがする。なぜなのだろうか・・・。

理由もよく分からないまま、とりあえず夏目漱石には「さん」は必要ないですよと注意すると「彼は偉い人ですよね、どうして付けてはいけないんですか」と質問が来た。改めて質問されると説明できない。「そうですね。そういう歴史上の人物には“さん”は付けません」などと答えたのだが・・・。

ここバンクーバーでもこんな質問を受けたことがある。日本語上級の生徒が日系企業に入社し、半年ちかく日本に研修に行った。
そしてカナダに戻って来るなり、「先生、日本のサラリーマンは首相を尊敬していないんですか」と質問されたのである。日本人同士であれば「もちろん政治家なんて尊敬していないよ」と答えるところだが・・・。彼女にそうとも言えず「どうしてそんなふうに感じましたか」と聞いてみた。

ちょうど彼女が日本にいるとき、首相の交替劇があった。昼休みなどの雑談の中で「〇〇はひどかったね。今度の△△はどうかな。〇〇よりは少しはましかもね」などの会話である。大部分の人が時の首相の名前に「さん」など付けず、平気で呼び捨てにしているのである。何回もこんな会話を聞いていた彼女にしてみれば同僚の社員が首相を尊敬しているとはとても思えなかったのもうなずける。
さてどんなふうに彼女に説明すればいいのだろうか。

これはいわゆる敬語の使い方の問題である。日本語教育において敬語はとても重要な項目であり、人間関係を円滑にする潤滑油と教えている。確かに敬語は人間関係を滑らかにするものであるから人間関係が無いところには敬語は発生しないのは当然である。
それ故歴史上の人物にはもちろん、どんなに偉い人や有名人などにも人間関係が無ければ基本的には「さん」や「さま」は付けてはいけないのである。もし付けたりするとその人と人間関係があることを示唆することになってしまう。日本語教師になる前はこんなこと意識したことも、また考えたこともなかったのだが・・・。

しかし例外もある。いわゆる皇室用語である。いくら人間関係が無いからといって、まさか「雅子」とは言えない。「雅子さま」である。
ご出産おめでとうございます。


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