矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 7

☆ 「雨に降られた」

 「きのう雨に降られた」これを聞いて日本人は誰も「よかったね」とは言わない。即座に「困ったんだ」と判断できる、いわゆる迷惑の受け身表現である。この表現を教えるとき、 例文としてこの「雨に降られた」がよく使われている。当然私もこの例文を使って説明したのだが、どうもこちらの生徒はピンとこないのである。
理由はしばらくして分かった。雨に対する日本人とここに住んでいる人との感覚の違い、ひいては文化の違いである。

確かにここバンクーバーでは雨に対する嫌悪感があまり感じられない。雨が降っていても傘をさしている人は少なく、 急な雨にも雨宿りや小走りする姿などほとんど見かけない。更に驚くことに雨の中を平気でジョギングしている姿をよく見かける。どうして
わざわざ雨の中をと聞いてみたくなる気がするのだが・・・。

一方日本では雨は嫌なものと相場が決まっている。どうしてこんなにも違うのだろうか。 理由はいろいろあると思うが、先ずここバンクーバーで雨が嫌いであれば、 雨、雨、雨の冬はとても生きてはいけない。 雨を友として仲良くしていこうという生活
の知恵なのかもしれない。

一方日本では子供のときから 「頭が濡れるイコール風邪をひく」という方程式を親から習っており、頭が濡れることはとてもいけないことだと教育されてきたように思う。 だから日本では迷惑の受け身文の例文として「雨に降られた」はとても効果的なのであろう。だがここバンクーバーではこの例文は確かにふさわしくないように
思える。 私自身もカナダに移住して雨に対する考え方が何となく変わってきた。日本にいたときは梅雨の時期はもちろん、常に出かけるときは何となく雨が気になっていた。しかし今はほとんど気にもならず、少しの雨ならカサなどささずに平気で歩いている
自分を見て驚いてしまう。例文の不適切さを身をもって体験しているのである。

こんな経験もある。こちらに移住して間もなく日本人の来客に「どうぞお上がりください」と言いながら何となく違和感を感じた。
縁の下などないフラットな玄関で「上がる」はとてもヘンである。この言葉も日本の建築文化からできた表現であろう。

また日本で教えていたときこんな質問を受けてしまった。イランの生徒が「お金を湯水のように使う」はどんな意味ですかと真剣に聞いてきたのである。彼らにしてみればお金を大事に使う意味にとりたいのは容易に想像できる。「油のように使う」とでも言えば本来の意味が分かってもらえるかもしれない。

日本語を教えるとき、この文化の違いを理解し、そしてその違いを楽しむことがとても大事なことだといろいろな体験を通して認識できたのである。


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