☆ 「降りられますか」はやばい・・・?
最近の日本語教師養成講座の受講生の中に将来日本語教師になったら
日本語学習者に「食べれる」や「着れる」などは絶対教えたくないです、と発言する
若者がいた。20台半ばの日本人としてはかなり珍しく、とても頼もしく感じた。
「食べる」の可能形「食べられる」から「ら」を抜いた、いわゆる「ら抜き言葉」である。
この「ら抜き言葉」を説明するには改めて動詞の活用の違いを意識してもらわ
なければならない。例えば「作る」と「食べる」は活用が異なる動詞だということで
ある。ここで昔習った国文法を思い出していただくと・・・、「作る」が五段活用
動詞(日本語教育では@グループの動詞という)であり、「食べる」は一段活用
動詞(Aグループの動詞)である。
こんなこと我々日本人にしてみればどうでもいいことなのだが、学習者にして
みれば大いに気になるところである。事実この違いは可能形をつくる場合に特に
大事になってくる。「作る」は「作れる」だが、「食べる」は「食べられる」が文法上の
規則である。
同じ「きる」でも「切る」は@グループの動詞なので可能形は「切れる」だが、
「着る」はAグループなので「着られる」としなくてはならない。しかし大部分の
若者は「食べられる」を「食べれる」、「着られる」を「着れる」と「ら抜き言葉」を
堂々と使っている。文法的には正しくないと言わざるを得ないのだが・・・。
でもこの現象がどんどん増えていく理由として一段活用動詞に文法上の不備が
あることも事実である。例えば「食べる」の可能文の「納豆が食べられる」と
受身文の「猫にさしみを食べられた」そして敬語の「社長はランチを食べられて
いる」のように形がすべて同じであり、もちろん文脈から判断できるが、単に
「食べられる」と言っただけでは意味がはっきりしない。
表題の「降りられますか」であるが、この「降りる」という動詞も「食べる」と同じ
グループの動詞である。バスが止まって、出口の所にお年寄りがいる。降りようと
している若者が「降りられますか」と声をかけた。するとそのお年寄りは「年寄りを
バカにするのか・・・」と怒ったとのこと。
若者はお年寄りに「降りられますか」と敬語を使ったのだが、そのお年寄りは
それを可能形と思ってしまった。せっかく敬語を使ったのに怒られたのでは
たまったものではない。こんな場合は他の敬語表現を用いたほうがよさそうである。
このように「ら抜き言葉」は一段活用動詞の不備も絡んで、若者を中心にかなり
高い割合で使われており、もはや間違いだとは言えず、すでに市民権を得て
いると言われている。
しかしこんなご時世に「ら抜き言葉」は絶対ダメですという若者との出会は
一服の清涼感を得た思いであった。
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