矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 89


「飲み足りない」はダメ・・・?

ここは日本の喫茶店、やはり何となく落ち着く感じがする。昔よく課外授業と称して
生徒達と実用会話の練習をした喫茶店である。そして今回の日本行きに際し、
この思い出の喫茶店で昔の生徒と数年ぶりに再会した。彼はもう10年近く日本で
働いているので日本語は超上級レベルである。

コーヒーが運ばれてきた。そして少し砂糖を入れて飲み始めた。カナダではいつも
ブラックで飲んでいるのだが、目の前にきれいなお砂糖ポットがあり、何となく入れてみたく
なった。かわいいスプーンで一杯、そして「まだちょっと足らないかな・・・」と言いながら、
もう一杯砂糖を入れた。

ここで彼からこんな質問が飛び出した。「先生、『足ります』の否定形はどうして二つの
言い方があるんですか・・・」である。最初は何の質問だかよく分からなかったのだが、
うーん、確かに「足りない」と「足らない」の両方使っている。こんなこと日本人はあまり
意識したことはないのだが、確かに二つある。

日本語教育では基本的には「足りない」だけを教えているのだが、思わず「足らない」
を使ってしまった。彼もときどきテレビなどで「足らない」という表現を耳にするとのこと。
どうしよう・・・ちょっと困ってしまった。でも彼は上級者である。ここで早速上級日本語
講座が始まった。

 これは「足る」と「足りる」の二つの動詞があるからですよ・・・である。日本語教育では
「足る」という動詞は教えない。実際我々日本人も「足る」という動詞は確かに古い
感じがするのでほとんど使っていないのでは・・・。しかし「足らない」を説明するには
どうしてもこの「足る」という動詞が必要である。

先ず日本語の動詞には三つのグループがあるのだが、この「足る」という動詞は「売る」
と同じグループの動詞なので「売る」は「売ります」だから「足る」は「足ります」である。
一方「足りる」は「借りる」等と同じグループの動詞なので「借りる」が「借ります」だから
「足りる」は「足ります」である。

 日本語教育ではこれを「ます形」と呼んでいるのだが、両方の動詞とも「ます形」は全く
同じ形の「足ります」である。ここがとてもややこしいところである。しかし「足る」の否定形
は・・・、「売る」は「売らない」だから「足る」は「足らない」である。一方「足りる」の否定形
は「足りない」である。ここで「足らない」と「足りない」の二つが登場してくる。どちらも
文法的に間違いではないので確かにややこしい。

では、この使い分けは・・・。正直なところどうして「足らない」を使ったのか自分でも
よく分からない。あまり使われていない古いイメージの「足らない」を使ってちょっとおどけた
雰囲気を出そうとしたのかもしれないネ・・・と彼に話した。

上記の「飲み足りなかった」と「飲み足らなかった」も何か違いが・・・。もう少し飲みた
かったけれど、お金が足りなかったから・・・残念。こんな場合ちょっとおどけて「飲み足らな
かったですね」がピッタリなのでは・・・が彼の意見である。大したものである。ほとんど
しゃべれなかった生徒がここまで成長した。日本語教師としての喜びを強く感じた
次第である。



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