矢野アカデミー

カナダ移住への道

その8 日本語学校の設立


 ついに1994年8月8日 旅行者ではなく移住者としてバンクーバーに第一歩を印し、長年の夢であったカナダへの移住がとうとう実現したのである。 そしていよいよカナダでの生活が始まった。いままで何度かここバンクーバーには来ているので カナダライフがどんなものであるかなんとなく分かっているつもりでいたのだが、実際生活をしてみるといろいろな面で戸惑いや驚きがあった。

まずここはやはり車社会である。住んでいる場所にもよるが車がないと何事も始まらない。幸いなことに移住する前から親交のあった方のお世話で移住当日から自分の車を使用することが出来た。 確かに運転に関しては当初はかなり戸惑いはあったが道幅がとても広く感じ、横浜などよりははるかに運転しやすかったと記憶している。 また、日本ではほとんど経験のなかった芝刈や水まきなども日常生活の中に組み込まれているのである。たまにやるのなら楽しいのが・・・。

更に 文化の違いも強く感じた。近所付き合いなどもごく自然に行えばよく引っ越しソバなども必要無い。また服装についても いわゆる“衣替え”などは無く、 それぞれが好きなときに好きなものを着ればよいのであり、 他人の目など意識する必要は全く無いのである。

一例だが、スカイトレイン(モノレールのような乗り物)の中で毛皮のオーバーコートを着ている人とTシャツ1枚の人が一緒に座っていてもここでは不自然さなど全然感じないのである。 多民族国家のカナダでは当たり前なのかも知れないが、日本では「どちらかがおかしいぞ」そんな目で見てしまうような気がする。

またここでは自分の意見をはっきり述べることが大変重要である。これも文化や言葉が違ういろいろな人種が住んでいるカナダでは当然であり以心伝心はまるで通用しないのである。 しかし単一民族、 単一言語の日本は全部言わなくても分かる、 分かって貰える いわゆる 「察しの文化」 であり直接的表現はあまり好まない民族なのである。 こんな失敗もあった。

ある家のパーティーに招かれ、 「飲み物は何を?」 の答えに とりあえず遠慮がちに 「水でも・・・」 と言うと 本当に水しか出てこなかったのである。「そう言わずにビールでも・・・」の言葉を期待していたのに。

また生活のリズムもここではなにか1年を一つの単位として行動しているようで、すべてに“のんびり”の印象を受けた。これは与えられた時間を使うのではなく、 何か自分で時間を作っていくように思えた。

それはここバンクーバーは夏と冬の日の長さや天気が日本では考えられないほど大きく異なるからであり、「夏にすること」と「冬にすること」をはっきり別けざるを得ない文化的背景があるからであろう。


  さて、 仕事の方であるが早速日本語学校の設立にとりかかる。 これも幸いなことに友人がガスタウンで出版会社をしており、 好意に甘えてその一部屋を借り、思ったよりも簡単に日本語学校を始めることが出来た。 カナダでも私は友人に恵まれているとつくづく感じた。

学校の名前を「YANO KSJ Academy」 と名付けた。 KSJとは表向きは「Key of Speeking Japanese」 であるが、 実際は家族の名前すなわちKeiko・ Shuzo・ Junichiro の頭文字をとったのである。そして1994年11月、全従業員1人ではあるが、とりあえず「矢野アカデミー」の誕生である。個人レッスンが中心だが、 幸運にもサイモンフレーザー大学や企業などでもビジネス日本語を教える機会が持てた。

更に日本語を教えることに興味のある日本人を対象に 「日本語教師養成講座」もスタートさせたのである。そして一年後の1995年11月メトロタウンについに独自の教室を開校したのであった。

思えば確かに激変であった。 それこそサラリーマン時代には想像もつかないことの連続であった。


 そして1999年の8月で移住して丸五年が経過した。 今では 我々の “ものさし” もかなりカナダ的に変わってきた。 そして家族全員で結論を出した。「カナダに移住して本当によかった」 と。 正直なところ、 来る前は若干の不安、特に子供の学校のことが一番心配であったが、 のびのびと学校生活を送っている姿がなによりもホット出来たところであり、 無事卒業も出来たのである。


 もしこの出合いが無かったらカナダ移住など考えもしなかった横浜、 ピザ屋でのブライアンとの「運命の出会い」を強く、 熱く心に思い起こしながら、この辺でペンを置きたいと思います。 長い間ありがとうございました。


 
カナダ移住への道 その8 日本語学校の設立
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