矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 200


☆ 「足るを知る」
 

5月の半ばから一か月ほど日本に行ってきた。そして矢野アカデミーの
同窓会も川崎や名古屋などで行ない、とても楽しいひと時を過ごした。
また数年前に日本に行き、東京の会社に就職したカナディアンの生徒
とも久しぶりに会った。喫茶店でコーヒーを飲みながら、いろいろ昔話に
花が咲いたが、でも何か物足らないね、と少しビールでも飲もうということに
なり、改めてビールで乾杯した。


  ここで彼からこんな質問が出た。「物足りない」と「物足らない」はどう
違いますか、である。うーん、確かに「物足りない」と「物足らない」と二つ
ある。こんなこと日本人はあまり意識したことはないが、生徒は気になる。
一般的には「物足りない」が主に使われている。
でもなぜか、「物足らない」と言ってしまった。ちょっと困ったが、
彼は日本語超上級者。ここで早速日本語講座を始めた。

これは先ず「足る」と「足りる」の二つの動詞があるからですよ。でも
日本語教育では「足る」という動詞は教えない。実際日本人も「足る」
という動詞はかなり昔に出来た古語であり、現在は全く使っていない。
しかし「足らない」を説明するにはどうしてもこの「足る」という動詞が必要
である。


  日本語の動詞には三つのグループがあり、この「足る」という動詞は
「売る」などと同じグループの動詞なので「売る」の否定形は「売らない」、
だから「足る」は「足らない」である。一方「足りる」は「降りる」などと同
じグループの動詞なので「降りる」の否定形は「降りない」だから、
「足りる」は「足りない」である。ここで「足らない」と「足りない」の二つが
登場してくる。どちらも文法的には正しいからややこしい。


  では、この使い分けは・・・。正直なところどうして「物足らない」を
使ったのか、自分でもはっきり分からない。
ほとんど使われていない古いイメージの「足らない」を使って、ちょっと
おどけた雰囲気を出そうとしたのかもしれないネ、と彼に言い訳をした。
すると彼曰く、「飲み足らなかった」も、もっと飲みたかったけど、お金が
足らなかったから、とても残念。こんな場合は「飲み足らなかったね」の
ほうがいいですよね、である。誠に大した上級者である。


  現在「足る」という動詞は全くと言っていいほど使われていないので、
「物足らない」や「飲み足らない」は使わないほうがよさそうである。


   でもこの時、表題の「足るを知る」という言葉を思い出した。
そして彼に少し説明したくなった。これは中国の老子という人の言葉で、
無いものをねだるのではなく、今あるものに目を向けて満足する、
足るを知る者は貧しくとも心豊かである。
なかなか深みのある言葉でしょう、と説明した。


  でもビールがもうなくなってしまい、やはりもう少しあったほうが
いいよねと、もう一杯注文して改めてしばらくぶりの再会に乾杯した。

ほとんどしゃべれなかった生徒がここまで成長した。日本語教師としての
喜びを強く感じたひと時であった。



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