いよいよ面接である。すでにカナダに移住しているいろいろな方から面接の重要性は聞かされており、更に
外国に移住するという夢が実現するかどうか、正に「運命の岐路に立つ」という感じの、今までに経験したことのない緊迫感をひしひしと感じながら臨んだのであった。
そしてその面接だが
いろいろ準備した割りには簡単に終わり、 結果は後日連絡するとのことであった。事実
多くの方からその時点で結果が出ると聞いていたので、多少の不安感と何か拍子抜けの感を抱きながら家路についた。
そしてそれこそ一日千秋の思いでカナダ大使館からの連絡を待つのだが、なかなか来ず、ようやく翌年4月に返事が来た。
内容は
「現状では移住許可は難しいが、
近々移民法が変わるのでその時もう一度新しい申請書を提出してみては・・・」とのことであった。
すんなり許可が貰えるものと思っていたので、
家族全員ショックを受け気落ちしてしまったが、「よし!もう一度」と奮起し、再度挑戦を試みたのである。 申請書を取り寄せ、
いろいろな新しい資料も用意してもう一度カナダ大使館に提出したのである。
そして さらに悶々とした約1年が経過するのだが、
再度の面接日今回は何となく雰囲気が異なり、最後に 「Congratulations!」 と言われたのである。
このときは面接官が神様のように思えた。
1993年の12月のことであった。 これからまだ身体検査や提出書類が残っており正式許可ではないが、
とりあえず 家族で祝杯をあげ妻・啓子、 そして息子・潤一郎と「移住の喜びと決意」
を確認し合ったのである。 そしてついに正式な移住許可書が翌年(1994年)4月に自宅に届いた。 家族で移住を決意してから約4年の歳月が経過していた。
ついに
「夢の実現」 である。 当初思ったよりも2年ほど長くかかった感じだが、結果的にはこの2年が経済的に非常にプラスになった。 いわゆる「円高の恩恵」
である。 今までは円相場などほとんど気にならなかったがこの時から総資産をカナダドルに替える覚悟であり、 1円の 「円高・円安」 も大いに影響があり、
それこそ毎日の円相場に一喜一憂したのであった。
さらに この時息子は中学2年生、 英語学習の点では、 この時期の移住は少し遅いかもしれないし、
本人の苦労も大変だろうが、 しかし日本語の知識や文化の習得など考慮に入れれば、
更に この年が丁度ここの Secondary school(中・高校)の1年生(Grade8)の入学年でもあり、
移住するには今が最高の時期だと勝手に判断した。
さて、 いよいよカナダ移住の具体的な準備に入るわけだが、 カナダは9月が新学期でありこれに合わせて、 移住する日を8月中旬と決めた。まず現在の家の処分だが、 これは少し先行してすでに近くの不動産屋に頼んであり、次にカナダの住居を購入するために5月に家族でもう一度バンクーバーを訪れた。
住む場所は息子をピーターと同じ学校に入れたくもちろん ヘンダーソン家が住んでいるNorth
Delta である。 幸いなことに近くに日本の方が住んでおり、 いろいろ手助けをしてもらって
家族全員が気に入ったすばらしい家を購入することができた。 明け渡しを8月中旬としすぐさま日本に帰り、
移住のための引っ越しの準備に飛び回るのである。
それこそ猫の手も借りたいほど忙しかったが、なにか心浮き浮きする楽しい忙しさであった。小学校時代の友から会社時代の友人、PTAの仲間そして日本語教師の同僚まで。この時ほど友人の
「すばらしさ」 「ありがたさ」 を肌で感じたことはなかった。 楽しい別れもあった。なんとなく涙が出てくるお別れ会もあった。
いままでのことが走馬灯のように思い出された。
親戚回りや墓参りも済ませた。日本を離れる日を縁起を担いだ訳でもないが末広がりを期して8月8日に決め、
最後の夜は妻の実家で過ごした。 そしておやじの位牌を胸に 勿論往復ではなく
片道キップを買い、第二の故郷になるであろうバンクーバーに向け成田空港を飛び立ったのである。
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