矢野アカデミー

カナダ移住への道

その1 脱サラへの決意


 「おい、修三 一緒に住まないか」 このおやじの一言が私の人生を大きく変える“きっかけ”になるとは その時は夢にも思わなかった。

いまからおよそ15年前(1986年)の出来事である。 母親はだいぶ前に他界しており、当時 おやじは一人で生活していた。明治生まれの頑固さも手伝ってか元気なうちは 息子たちの世話などになりたくないと、 一人ぐらしを続けていたのである。

しかし 歳も八十の半ば近くになり、やはり気弱になったのだろうか、 冒頭の相談を受けたのである。 しかも三男で末っ子の私にである。やや戸惑い、 驚きはあったものの妻の理解も得て、 早速 準備にとりかかる。手狭な東京の家を処分し、横浜の洋光台に引っ越し、同居生活が始まったのである。

その時 小生42才、 奇しくも男の厄年であったのだが・・・・・。大学卒業後 約20年間会社勤めを続けており、 善につけ悪しきにつけ 日本型サラリーマン、 すなわち終身雇用を念頭に、会社の仕事が全てに優先することにあまり疑問を持たない 典型的な会社人間としてビジネス社会にどっぷりと浸かっていたのである。

そんな私の頭の中に“退職”という2文字を浮かび始めさせたのは、 おやじの面倒をすべて妻に任せざるをえない“現実の状況”、とそれに対する“申し訳なさ”であった。

おやじも いつかは 寝たきりという状態になることも十分予想され、そうなったら 妻だけではおやじの世話は とても無理であろう。さらに 宮仕えの宿命である 転勤もまだまだ ありそうで、もし そうなれば当然単身赴任しかない・・・。あれやこれやと考えるうちに 家庭というものに対する漠然とした不安が沸いてきたのである。

確かに、 20年近く勤めた会社を辞めるということは、 当時の私にとっては非常に勇気のいることであるし、 経済的にも不安があった。しかし 「人生とは? 家庭とは?」と改めて考えると、 何か今までと違った前向きの答えを出したい、 という気持ちも強く感じるようになり、 さらに何か新しい事に挑戦してみよう、してみたい という冒険心も大いに働いたのだろう、思い切って決断を下し、 ついにサラリーマン生活に終止符を打ったのである。

  いわゆる 《脱サラ》 を試みたのである。

このように《おやじとの同居》ということがなければ、「激変の我が人生劇」 の序幕である“脱サラ”も まったく考えられず、 ましてクライマックスである“カナダ移住” などは想像すら出来ないことであった。


 さて、 会社を辞めた後、 日本語教師の道を選ぶのだが、これにもちょっとした
“きっかけ”がある。 それは1985年のつくば博である。ご存じの方も多いと思うが
茨城県の筑波で行われた科学万博であり、 この時はまだ会社を辞める前で我が社の
万博プロジェクトチームの一員として、このつくば博に参加していた。 当然 そこで
多くの外国の人々に会うのであるが、会う人ごとに日本語を教えてくれと頼まれた
のである。

もちろん 日本語を教えることなど、 サラリーマンの私には出来るはずがない。親しくなって、 時々お酒でも飲みながら、「ひや」 と 「おひや」 の違いなどを話したことはあったが、日本語教育などは全く別世界のこととしてとらえていた。 でも「なぜ、 どうして こんなに日本語を勉強したい人がいるのだろう」と不思議に思ったことも事実であった。

“そんな思い” が会社を辞めて何をしようかと考えたとき、一つの選択肢を与えてくれたのである。つくば博でのことを思い出しながら 「そうだ、 そんなに勉強したい人がいるんなら、日本語教師でもやってみるか、 これなら自分の家でも教えられるし・・」 と潜在的に教えるということに興味はあったが、 日本語教師へのスタートはこの様にごく気楽な考えからであった。

サラリーマンの私にとって日本語教育はまったく未知の世界であったが、 いろいろ調べてみると、この2〜3年前(1984〜5年)から 特にアジア諸国で日本語への関心が高まっており、これから ますます日本語熱は高くなり、 日本語学習者もどんどん増えるだろうと言われていた。 いわゆる日本語ブームの始まりでこのことは 当然 日本の強い経済力と大いに関係があり、 当時日本は好景気に浮かれており、在日外国人にとって 日本語が「出来る、出来ない」 は 給料などの面で雲泥の差になりつつあったのである。

これで 私が日本語教師になる“伏線” となった つくば博での出来事もようやく理解できたのである。私自身 大学で言語学や教育学などを専攻したわけでもなく、 本当に日本語教師になれるのかどうかという不安は隠しきれなかったが、 なんとかなるだろう精神と日本語教師になるための勉強をするには 今が一番良い時期だと判断し、 早速日本語教師養成講座なるものを目指して、 東京・渋谷の ある日本語学校の門を叩いたのである。

いまでこそ 日本語教師は一応職業として認められており、関心を持っている方も多いが、当時は一般の人にはほとんど知られておらず親戚や友人などに 「日本語教師になる」と話しても 「なに それ?」と詳しく説明しないと分かってもらえない状況であった。


  ともかく、 そこで一通りの日本語教師としての基礎知識を習得し、 研修や実習を重ねて、ついに1988年1月、 新米ながら日本語教師として第一歩を踏み出した。


 
カナダ移住への道 その1 脱サラへの決意
 
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