☆ カナダで出会った「新渡戸稲造」
≪その知られざる魅力≫
B
札幌農学校そしてアメリカ留学
東京に住んでいる太田叔父さんの養子になった稲造が盛岡から
東京にやってきたのは、9歳 明治4年(1871年)です。名前も太田稲造と
変わりました。
そのころの東京はレンガ造りのビルが建ち並び、道もどんどん整備され、
馬車が走り、翌年には新橋・横浜間に鉄道が開通するなど、文明開化の
音が鳴り響いていました。ちょんまげも切り、着物ではなく、洋服を着る人も
多くなり、そんな光景を見て稲造はびっくりしたことでしょう。すぐに
英語学校に入ります。当時は西洋に追いつけと、若者の間で英語学習が
かなりブームになっていたようです。
そして15歳のとき、祖父や父の遺志を継ぎ、農学を学ぶため、
創立されたばかりの札幌農学校(いまの北海道大学)に2期生として
入学します。アメリカから教頭として招いたクラーク博士は
わずか8ヶ月だけの在任でしたが、農学校の基礎を作り、
キリスト教精神なども教え、1期生に大きな影響を与えました。
「少年よ、大志を抱け」はあまりにも有名です。
稲造が入学したときは、すでにクラーク博士はいませんでしたが、
1期生を通して、博士の影響はとても大きく、キリスト教の洗礼なども
受け、クリスチャンネームは「パウロ」にしたようです。
同期には生涯の友となるキリスト教伝道者の内村鑑三などもいました。
授業はすべて英語で行なわれ、聖書や多くの本を原書でむさぼるように
読んだようです。当時の若者の外国の文化を吸収し、
世界の仲間に入りたいという強い意欲が感じられます。
そして3年生(18歳)のとき、稲造にとって痛恨の出来事が、
母の死です。9歳のときに別れてから、一度も会っておらず、
頑張っている大学生活のことをぜひ母親に報告したいと思っていた
稲造にとって、母の死に目にも会えなかったことは、
悔やんでも悔やみきれないことでした。かなり落ち込んで病気に
なってしまったようですが、学友などの励ましを受け、
立ち直ったというエピソードもあります。またその後の彼の
文書などにも、亡き母に対する後悔の念のくだりが多く見られます。
あまりにも大き過ぎる悲しみだったのでしょう。
札幌農学校を卒業して、21歳のとき東京に戻ります。そして
さらなる勉学のため、東京帝国大学(いまの東京大学)に
入学します。その向学心には頭が下がる思いです。そして
農学と関係ない英文学などを学びたい理由として、教授に
答えた言葉が有名です。
「太平洋の橋になりたいと思います」
それはまさに、「しっかり勉強して、立派な人になりなさい」と
育てられ、今は亡き母に向かって自分の志を述べたもの
だったのでは、と思えてなりません。
UBCの新渡戸ガーデンに
「願わくは われ太平洋の橋とならん」の石碑があります。
今まで何回も見ましたが、最初のころは、この言葉が
21歳のときのものとは知りませんでした。でもそんなに若い時の
決意だったのか、と分かって、改めてこの石碑を眺めると、
何か胸に迫るものを感じてしまいました。

東京帝国大学で勉強しているうちに、稲造は日本の教育は
外国と比べてかなり遅れていると感じ始めたようです。
もっと新しい学問や西洋文化を学ぶには日本では難しく、
どうしてもアメリカに行って勉強したいと思うようになりました。
そしてその決意を養父の太田時敏に打ち明けます。でも、
当時は外国に私費で留学するなどほとんど考えられなかった
時代ですし、洋品店の経営もうまくいっておらず、
当然ダメだ、を覚悟していました。しかし
養父は「よし、行くがよい」と、なけなしのお金を用意して
温かく送り出してくれました。
このようなきびしい状況の中で、未知の外国、アメリカに
1人で勉強しに行こうなどと考えた稲造もすごいと思いますが、
それを許可した養父・太田時敏の決断も、稲造の将来性を
見据えた素晴らしい英断であったと確信します。
この時の稲造の養父に対する感謝の気持ちは言葉では
言い表せないほど大きなものであり、
のちの著書「武士道」にもそのことが記されています。
太田青年は希望と不安を胸に、太平洋のかけ橋になろうと、
アメリカに旅立ちました。
1884年(明治17年)の秋、稲造22歳のときでした。
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