矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 172


☆ 「始末」は始末に負えない
 

ビジネス敬語を受講した日本語上級者と久しぶりに会った。
彼はいま日系の企業に勤めており、日本語もさらに上達したもの
と思われる。さっそく、居酒屋で一杯飲みながら、日本語談義に
花が咲いた。そして少し笑いながら、「先生、日本のサラリーマン
時代に始末書を書いたことありますか」である。

敬語講座のときに、日本で20年間サラリーマンをしていた
ことは話したが、彼から突然「始末書」と云われて驚いた。
サラリーマンにとって、この「始末書」という響きは恐ろしい。
こんな言葉をここバンクーバーで、しかも外国の生徒から聞こう
とは思いもしなかった。会社の先輩からこの「始末書」のことを
聞いたとのこと。

そして彼の質問は漢字についてである。どうしてこの「始末書」
の漢字が始めの「始」と、終わりの「末」を使うのか?  そんなこと
考えたこともなかったが、なるほどそういわれてみると確かに。
外国人ならではの質問である。

幸いにも、サラリーマン時代に、始末書を書いた経験はなかっ
たが、こちらの会社にもあるであろうと、彼に聞いてみた。英語では
a letter of apology」とのこと。確かに「謝罪文」や「お詫び文」の
ほうが分かりやすい。でもなぜ日本語では「始末書」というのか、
そしてなぜこんな漢字を使うのか、困ってしまった。

物事の始めから終わりまでの成り行きを説明しなければなら
ないから、「始末書」とつけたと思いますよ、が精一杯の説明で
あった。

でもいろいろ考えてみると、確かにこの「始末」という言葉は
ややこしい。もちろん「事の始末を見守る」などと文字通り、物事の
「始まり」と「終わり」を意味する使い方もある。

でも「火の始末」や「店を始末する」などとよく使っている。
これは物事の後かたづけや処分を意味している。ではなぜ
始まりの「始」の漢字を使うのか、うーん、確かに。

これは「終わりが大事」を強調するために、この「始末」という
言葉も「始」よりは「末」に重点が置かれているのであろう。やくざ
映画などで「やつを始末しろ」など、日本人はすぐ理解できる。

しかもこの「始末」に「倹約」という意味もあり、困ってしまう。
関西方面で使っており、方言かと思ったが、大間違い。
「紙を始末して使う」や「始末な人」など「倹約」の意味で辞書に
ちゃんと載っている。最近はあまり使われていないようだが、でも
なぜ「始末」が「倹約」なのか、確かにややこしい。

「この店のサービスは始末に負えない。挙句の果てに、料金を
間違える始末だ」 こんな表現を彼に教えるべきか、悩んでいる
と、お酒がまずくなってしまった。

始末書のことから、今まで考えもしなかったこの「始末」という
言葉、まさに始末に負えない。



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