矢野アカデミー

バンクーバー新報投稿エッセイ

外から見る日本語 23

☆ 「ら抜き言葉」

「食べれる」は正しい言い方ですかと日本語学習者からよく質問される。
いや学習者だけでなく日本語を母語としている方からも。単に「食べられる」から「ら」が抜けただけなのだが、正しいかどうかと言われるととても難しい。
いわゆる可能形の「ら抜き言葉」の問題である。

これを説明するには先ず動詞の活用の違いを意識してもらわなければならない。それは例えば生徒に「お寿司を作る」と「お寿司を食べる」を一緒に教えては困るという意識である。初級の学習者にとって「作る」が「作ります」なら「食べる」が「食べります」になっても不思議ではない。
いわゆる「作る」と「食べる」は活用が異なる動詞だと強調しなくてはならないのである。ここで昔習った国文法を思い出していただくと・・・。

「作る」が五段活用動詞(日本語教育では@グループの動詞という)であり、「食べる」は一段活用動詞(Aグループの動詞)である。 こんなこと我々日本人にしてみればどうでもいいことなのだが、学習者にしてみれば大いに気になるところである。

事実この違いは可能形をつくる場合に特に大事になってくる。「作る」は「作れる」だが「食べる」は「食べられる」が文法上の規則である。同じ「きる」でも「切る」は「作る」と同じ@グループで「切れる」だが「着る」は「食べる」と同じAグループなので「着られる」としなくてはならない。

しかし最近若い人の大部分は「食べられる」を「食べれる」、「着られる」を「着れる」と「ら抜き言葉」を堂々と躊躇無しに使っている。文法的には正しくないと言わざるを得ないのだが・・・。

でもこの現象がどんどん増えていく理由として文法上の不備があるのも事実である。この「食べる」のグループの動詞は可能と受身そして敬語の形がすべて同じであり単に「食べられた」と言っただけでは意味がはっきりしない。
特にもう一つの変格活用グループ(Bグループ)である「来る」の可能形の「来られる」などは敬語のほうを強く感じる人が多いように思える。確かに自分の息子に「明日何時に来られる」などと言うと何か変な感じを受け、ら抜きの「何時に来れる」のほうがすっきりする。若い世代はこの辺を敏感に感じ、「食べれる」を独自の可能形として使っているのでは・・・。このように「ら抜き言葉」はAグループの動詞の不備も絡んで、間違いだとは言えず、既に市民権を得ていると言われている。

しかしこの可能形の否定形となると・・・。例えば「食べれない」は「ら」を入れる人が増えてきそうだし、まして「生きる」や「信じる」などは「水なしでは生きられない」や「あんなテロ信じられない」などのようにちゃんと「ら」を入れたくなるのでは・・・。やはり生まれながらの文法はちゃんと身についているのである。


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