矢野アカデミー

カナダ移住への道

その6 PTA活動 そして父の…


 このようにカナダ移住の本申請は1990年の10月に行い、2年以内にはすんなりカナダに移住できるものと勝手に思い込んでしまったのだが・・・。

さて、 現在の仕事である日本語教師のほうであるが多くのすばらしい先輩や同僚教師にも恵まれ、丸3年を過ぎる頃になると教えるということにもだいぶ慣れてきたし、 いろいろな面に余裕も出てきた。
毎年の年賀状に当時流行っていた「サラダ記念日」をもじってこんな風に書いた記憶がある。

最初の年は
先生と呼ばれて最初は面食らい、ぎこちないやら気恥ずかしいやら」であったが、
翌年は「先生と呼ばれて少しも驚かず、慣れてきたなと最近の僕」になり、
最後は「先生と呼ばれて今はいい気分、余裕が出てきた先生稼業」と
こんな心境の変化であった。

確かに日本語教育ということは言葉の知識だけではなく当然文化や習慣などの幅広い知識や経験も大いに必要となる。特にビジネスに関する特殊な表現やマナーなどを教えるとき、自分の長年にわたるビジネスマンの経験が大いに役立っているのは
言うまでもない。そのころは日本語教師にサラリーマンを長年経験した男性はまだ少なく大いに重宝がられたりしたものである。

またこの他にも日本語教師として非常に役立った経験がもう一つあった。それはPTA活動である。サラリーマン時代にはそんなことは母親である女性がやるものだと思っていたし、男がPTAに携わるなんて考えもしなかったのだが、サラリーマンをやめた後、息子が通っている小学校からPTA会長への依頼がきた。もちろん最初は「とんでもない」とお断りしたのだが、比較的暇もあり子供のために是非と口説かれて引き受けてしまった。

サラリーマン時代には絶対考えもしなかったPTA会長への就任である。しかしこのPTA活動から日本語教師としてすばらしい貴重な体験ができたのであるから、 人生とは本当に不思議なものだと思わざるを得ないのである。まず、校長や先生方との
いろいろな話し合いを通して、少しオーバーだが日本の小学校の教育というものを内から身近に見ることができたし先生の「生の喜びや苦しみ」なども垣間見ることが出来た。

このことは後になって日本語教師として大いに参考になったのである。さらに最初は子供の為だなどと大上段に構えていたのだが、いつの間にかこれは自分の為だと思えるようになり暇にまかせて、区の、そして横浜市のPTA役員までしゃしゃり出てしまったのである。

事実このPTA活動を通していろいろな職業の人々と知り合い、またボランティア精神豊かなすばらしい仲間達と友人になれたことは私にとって大きな財産・宝物だと自負している。そして遠く離れた今でもすばらしい友好を保ちながら、PTA活動に携わって本当に良かったとつくづく思うのである。

さて大使館からであるが、2年が過ぎようとしているのに何の連絡もこないのである。 そして不安感と焦燥感にかられていたある日大きな悲しみに襲われた。「父の死」である。そのころはだいぶ肉体的に弱ってきており、寝たきりの生活を余儀なくされていたのだが・・・。

1992年10月 90歳の誕生日を前にしてこの世を去ったのである。とても悲しく辛い出来事であったが、「やれるだけのことはした」という満足感もあった。

そして奇しくも父の葬式と前後して大使館から面接日の通知が届いたのである。

何かおやじが自ら死をもって我々のカナダ移住を後押ししてくれたのではないかと思えた。何となく涙が・・・。

そして12月 面接当日 緊張感を漂わせながら妻とカナダ大使館に向かったのである。


 
カナダ移住への道 その6  PTA活動 そして父の…
 
Copyright (C) 2008 Yano Academy. All Rights Reserved.