姓はヘンダーソン、 名はブライアン、彼こそ「運命の出会い」のその人であった。そして奥さんのドニー、息子のピーターがその家族であり、その後
家族ぐるみの付き合いを通して忘れられない“カナダの友人” となっていくのである。
当時 うちの息子は6歳(小学校1年)、 ピーターは5歳、 一人っ子同士、 目の色が違った兄弟のごとく
「けんか」 もしながら、お互いに異なった言葉、異なった文化を肌で感じることができたのでろう。子供達にとってすばらしい経験になったことはいうまでもない。
また、私どもも彼らと親交を深めることは、 異文化交流を通して、視野の広がりを感じ取れた。 特にドニーはカナダの小学校の先生とのことであり、日加の教育問題についてお粗末な英語で論じたりもしたのである。
さて、 いよいよ別れの日が来た。 別れがたい気持ちを抑えながら、いつの日かの再会を胸に秘め、
「さようなら」ではなく「See you soon」 と最後の堅い握手をしたのであった。その後
カナダからの手紙や懐かしい思い出が残る数多くの写真などを見るにつけ、 ヘンダーソン一家が住んでいるバンクーバーとはどんな所なのか、
一度家族で行ってみたいと真剣に思い始めた。
当時一緒に住んでいた父親は元気ではあったが かなり足腰は弱ってきており、 カナダ旅行は無理だということで 父の世話を兄や姉そして家政婦さんに頼んで、 一年ぶりの再会を期して思い切って夏休みにカナダ旅行を計画したのである。
このように初めてのカナダ訪問は1989年の8月に実現したのであった。 もちろん家族での外国旅行は初めてであったが、なにか外国の親戚のところに行くような気がして、
もちろん興奮は隠せないものの不安などはあまり感じられなかった。
そして成田空港を飛び立ち、ついにバンクーバー空港に降り立ったのであるが、 まず感じたことは空気のさわやかさであった。 日本のあの蒸し暑さがまるでうそのように思えた。
そしてヘンダーソン一家の出迎えを受け、 彼らが住んでいるNorth Delta へと向かった。途中の目に入る景色すべてがすばらしく、
次に感じたことは「自然の雄大さ、美しさ」 であった。
正に “桁違い” という言葉を実感したのである。 そして木々に囲まれたヘンダーソン家に着いた。 いまでこそここではそんなに大きな家ではないのだが、当時は青々とした芝生の庭があるすばらしい豪邸に見えた。
さて3週間ほどの期間であったが、 別にこれといった観光地などには行かず、スタンレー公園やグラウス山などに連れて行ってもらったりしたが、 主に彼の家に居候になりながら のんびりとカナダライフそのものを楽しんだのであった。
日の長さにも驚かされた。 夜の9時を過ぎてもまだ明るいのである。 そんな日常生活の中で言葉の不自由さを除けば、あまり違和感など感じず、我々はカナダの生活に向いているのかな などと思ったりもした。 事実 このすばらしい気候(この時は夏の天気しか分かっていなかった)、 そして物価の安さ、さらに子供の教育などを考えると、真剣に「カナダ移住」について検討してみようと妻と話し合ったのである。
いわゆる「カナダ移住の芽生え」が胸の中にどんどん広がってきた。 もちろん移住するには多くの問題があるだろうし、第一簡単に移住できるのかどうか全く分からなかったが、 日本に帰って調べてみる価値は十分あるなと思い始めた。
今回の家族旅行が 「激変の我が人生劇」 の第二幕である「カナダ移住」 を具体化する大きな第一歩になったのは間違いない。
なんとなく人生の大きな変化を予感しながら、 心に残るすばらしい町バンクーバーに別れをつげたのであった。
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